館長「坂東 真夕子」の思い
「後は残された人でよりよい日本を創ってください」
2013年1月3日、私は鹿児島県知覧町にある知覧特攻平和会館にいました。
そこには、主に10代後半から20代の特攻兵たちの遺書が展示されています。それは出撃前に家族に宛てられた最期の手紙であったり、メモ帳に書き留められたものであったり、辞世の句であったり…とても達筆な字で、国や家族を思う美しい言葉が綴られています。冒頭に掲げた言葉はそんな遺書の中の一節です。
なぜ彼らは、若くしてこんなにも達筆で、こんなに美しい文章が書けたのだろう?なぜ彼らは、こんなにも国や家のことを思うことができたのだろう?
そして、私たちは、今の日本は、命を賭して日本という国の為に尽くしてくれた先人たちに対し、胸を張って「よりよい国を創ることができました」と報告することができるのだろうか?…そんな思いを抱かずにはいられませんでした。
戦後焼け野原から日本は立ち上がりました。終戦後わずか三、四十年で日本は経済大国となりました。物質的豊かさを享受し、情報化社会への変遷を遂げました。とてもとても便利な国になりました。しかし、今の日本は本当に「豊かで幸福な国」と言えるのでしょうか。家庭、地域、学校、会社…様々な社会で人間関係は希薄になり、「個性」という名のもとに価値観は多様化し、善悪の判断ですら個人の価値観に委ねられ、鬱病や自殺者も年々増加の一途を辿っています。本来ならば、夢や希望に満ちている子どもたちでさえ、夢や志を持てなくなっている時代です。
人々が夢や志を持てない社会は、刹那的でただただ暗い…これは何とかしないといけない、このままではこの国は死んでしまう、日本を再生するには教育しかない、いつやるのか…今しかない、誰がやるのか…自分がやる。私の中でそんなえも言われぬふつふつとした思いが芽生えてきました。
志道館とは、次世代の日本を担う子どもたちが「志」を持ち、人生という「道」をしなやかに力強く歩んで欲しい…そんな思いから名付けました。本事業を通し、先人たちが命を賭して紡いでくれた縦糸を、次世代にもつないでいくこと…これが、私に課せられた最期の宿題であると思っています。
2013年8月15日
株式会社志道館
代表取締役 坂東真夕子
プロフィール
坂東真夕子(ばんどうまゆこ)
1977年10月20日生まれ 香川県出身
【職業】
株式会社志道館代表取締役
【資格】
- ・講道館柔道五段
- ・中学高等学校教員免許(保健体育)
【経歴】
高知学芸中学校~高知学芸高校~横浜国立大学(教育学部)~警視庁でオリンピックを目指し柔道に打ち込む。
選手引退後は、警視庁を退職し、株式会社インテリジェンス、ジブラルタ生命保険株式会社で営業職、営業管理職を務める。2013年8月より現職。
【柔道歴】中学1年生から
【柔道を通じて学んだ事・得たもの】
競技生活を支えてくれた人たちへの感謝、謙虚な心、勝つことの喜び、負けたときの悔しさ、最大の敵は「弱い自分自身」であるということ、志(夢・目標)を持つ事の大切さ、逆境に負けない精神力、努力の習慣、礼儀礼節など。競技生活は正に「人生の縮図」でした。
【得意技】大外刈、内股
【得意教科】国語、日本史
【志】
日本の宝・希望である子どもたちと共に成長し、日本をよりよい国にしていくこと。
【主な柔道戦績】
- ・1992年全国中学校柔道大会準優勝
- ・1995年全国高等学校柔道選手権大会準優勝
- ・1998年全日本女子学生柔道体重別選手権大会優勝
- ・1998年世界学生柔道大会準優勝
- ・1999年イギリス国際柔道大会3位
- ・1999年全日本女子学生柔道体重別選手権大会準優勝
- ・2000年国民体育大会優勝
- ・2000年~2003年東京都女子柔道体重別選手権大会4連覇
坂東 真夕子ヒストリー
3人兄弟の長女、第二子としてすくすくと成長した坂東真夕子。
物心ついたころから「オリンピックに出たい!」という大きな夢を描いていた坂東。
父親より「どうせ世界を目指すなら、世界に通用するスポーツである柔道で目指したらどうか?」とアドバイスを受けたという。
しかし、当時バスケットボールに打ち込んでいた坂東の耳には入らず、小学生時代に、柔道に触れる機会はなかった。
小学校を卒業後、中学受験を経て
高知では一、二を争う進学校である、高知学芸中学に入学。
中学校でもバスケットボールを続けるつもりでいた坂東だったが、厳しさとストイックさを求める坂東にとって、バスケ部はものたりない活動内容だった。
そこでふと、以前父親に言われた「柔道をやってみたらどうか?」という言葉を思い出す。
「せっかくだし、やってみるか」
と、柔道部に入部することを選んだ。
元来、運動神経がよかった坂東は指導者や練習環境に恵まれ、めきめきと頭角を現す。
中学校2年生の春。
高校生や大学生、社会人もエントリーする大会にて、四国チャンピオンになる。
チャンピオンになったことで、はじめて全国大会への切符を勝ち取った。
そうして出場した全国大会は、実はバルセロナオリンピックの代表選考会を兼ねた全日本女子柔道体重別選手権大会であった。
そこで、当時の憧れの選手たちの試合を目の当たりにする。
その体験は、帰りの飛行機のなかで、わけもなく涙がこぼれてしまうほど、坂東の心を揺さぶった。
この感動を胸に「全国チャンピオンになる!」と決意。
さらに稽古に没頭した結果、3年生の夏に行われた全国中学校柔道大会で、準優勝。
高校2年生の春には、全国大会で準優勝。
そこから全日本ジュニア強化選手となり、高校3年生の6月にドイツジュニア国際大会に出場した。
坂東は2回戦で敗退したが、一緒に遠征した選手のうち2人が優勝。
表彰台の背後に掲げられた日の丸を見て、心が震えたことを今でも覚えている。
帰国後、坂東はさらに稽古に励んだ。
横浜国立大学に進学してから、ついに念願の全国大会優勝を果たす。
大学3年生の時、52キロ級で全日本女子学生柔道体重別選手権大会優勝。
その試合で優勝したことで日本代表選手に選ばれ、12月チェコ プラハへ。
そこで世界学生柔道大会、準優勝という成績を残した。
大学4年の4月には、イギリス国際柔道大会3位入賞。
得意技の大外刈り、内股を武器に戦い、勝つ事にこだわって真摯に柔道に向き合った学生時代であった。
大学卒業後、警視庁に入庁し、現役を続行。
東京都女子柔道体重別選手権3連覇。
国民体育大会団体戦優勝。
という結果を残す。
27歳で現役を引退。
その後は一般社会でのキャリアアップを目指した。
柔道といっさい関係のない世界に飛び込んだ理由を坂東はこう語る。
「27歳まで柔道しか知らなかった自分が、社会に出た時に何の知識もないことに気づいて、非常に悔しかった。しかし、柔道で培った精神が社会に通用することを自他ともに認めさせたくて、民間企業でチャレンジしたかった」
その思いを胸に、人材紹介会社インテリジェンス、ジブラルタ生命保険に勤務。
「警視庁を退職してからの8年間は、名の通った企業でキャリアアップや年収アップを果たし、悔しさを解消したかった。自分は柔道界でなくても結果を残せる。自分の可能性を信じて、必死になって仕事に打ち込みました」
元全日本学生王者として培った精神力で、ビジネス界に挑んだ坂東。
選手として、【目標を設定→心技体を向上させ→工夫改善を繰り返す】という考え方は、仕事においても多いに役に立った。
順調にみえた、ビジネスウーマンとしての日々。
営業所長まで務めた職を辞する決意をしたのは、こんな理由からだ。
「当初の目標を達成したということもあったが、昔から教育事業をやってみたいと思っていたこと、また管理職をつとめる中で、人間というのは子供の頃に心も頭もしっかりと鍛え上げた方がいいということに気がついたから」
とはいえ。
ジブラルタ生命保険を退職した当時は、塾のようなものをやろうか?というイメージをぼんやりと持っていたにすぎない。
これからどんな道を歩んでいこうか?
自分に出来ること、自分だからこそなし得ることとは何か?
頭の中で、過去のいろんな経験が掘り起こされ、そしてある言葉が像を結ぶことになる。
こうして今の自分があるのは、【柔道】を通して学んだこと、身につけたことが基盤になっているのではないか?
頭に浮かんだ思いを、また自らで問い直す。
警視庁を辞める時、きっぱりと柔道に別れを告げたはず。
長い現役生活でやれることはやってきた。もう柔道はいい。
そう思っていたはず。。。。。
自問自答を繰り返す日々。
だが、坂東の頭の中に、一度浮かんだ「柔道」という言葉はどんどんと大きくなっていく。
「いろんなことを考えました。最終的には、微力ながら柔道界に恩返しができれば、と思うようになった。それならば道場だろう、と。しぜんと心が定まりました」
多くの支援者の力添えに励まされ、東京都四谷に道場を設立。
そしていよいよ、2013年10月21日に【文武一道塾 志道館】始動
第一歩を踏み出すこととなった。
教育事業としての道場経営
このビジネスモデルを語ると、多くの人がこんな言葉を口にする。
「好きなことを仕事にできるなんて、幸せですね」
坂東はここでも自問自答する。
「柔道を教えるだけでは生活が成り立たないだろう。現に全国の道場をみると、その指導者のほとんどがボランティア。道場経営で生計を立てている人は、ごくわずかしかいない。事業として成り立たせる為には「どうしたら、高額なお金を払ってでも通わせたいと保護者の方々が思ってくださるか?」
その観点から
「English Dojo」「志ノート」「実語教の素読」などのカリキュラム、現代の寺子屋を作ろう、という構想が次々と浮かんできた。
道場設立の準備をすすめていた当時は「柔道だけでは駄目だ。総合的に人を育てることができるカリキュラムにしなければ」と考えた坂東。
塾生が増え、大人や子供が、それぞれの個性にそって変化してゆく姿を目の当たりにしたことで、当初の考えが少しずつ形を変えてゆく。
柔道だけでは駄目だ、という考えは柔道の可能性を狭めてしまっていたのではないか?
【柔道や、勉強や、英語を教える】のではなく【柔道を通して生きる気力を育み、その上で、必要なものを習得してゆく】と考えるならば柔道を体得することがその人の「根っこ、幹」となるのではないか?
そこに豊かな葉を茂らせてゆくように、様々な知識が蓄えられてゆくのではないだろうか?
そんな風に考えるようになった。
いま、坂東のヴィジョンの広がりと共に変容し、進展している 文武一道塾 志道館。
多くの塾生、そして支えてくださる応援者の皆様と共に新たな日本の未来へ歩をすすめている。
<雑誌【社長情報】2013年12月号掲載写真>
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